貴船神社改築
現在の社務所建立
終戦
社務所建立
清滝薦野小学校開設
境内に大宰府天満宮建立
寛政の改革
大宰府天満宮より分霊
石燈一対奉納(立花増厚:立花宗茂の一統)
天降神社鳥居
大飢饉
境内祇園様建立(薦野・庄屋、谷川善三氏)
天降神社神殿再建。
薦野増時の墓
清瀧寺兵火で焼失、再建(薦野氏立花三河守増時)
天降神社薦野に遷座。
大宰府天満宮鎮座
菅原道真死去。
菅原道真太宰権師に左遷される。
現在の米多比飛池下に天降神社鎮座と伝えられる。
香椎廟(香椎宮)鎮座
参照:天降神社史
年表
薦野氏とは
薦野氏は、筑前国糟屋郡薦野の国人領主で、代々宗像氏や大友・立花氏に仕えてきた豪族です。丹治式部峯延を祖とします。
特に薦野 増時(こもの ますとき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将です。
立花氏の家老を務めて後に「立花三河守」の名乗りを許されました。のち黒田氏の家臣となり黒田姓を与えられました。境内に石燈が奉納されています。
薦野氏
米多比氏
米多比氏とは
米多比(ねたび)氏は、薦野氏と祖を同じくし、本姓は「丹治(多治比とも)」のち略して「丹」と称し、筑前糟屋郡・米多比山に居城したことにより「米多比」氏を称するようになりました。 米多比直知は薦野増時の父・宗鎮と共に立花鑑載に反対し、鑑載に謀殺されたことがあるそうです。
また、福津市舎利蔵舎利山観音院勝宝寺に続く雑木林に米多比氏の「五輪塔」及び古賀市米多比に米多比氏の「五輪の塔」があります。
特に米多比 鎮久(ねたび しげひさ、天文20年(1551年) - 寛永10年9月11日(1633年))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将です。
薦野・米多比氏と同じく祖とする丹治式部峯延は、葛原天皇を祖としているといわれています。
祖とする葛原親王(786~853年)は、桓武天皇の第3子で母は多治比長野の女、真宗(769~823年)と言われています。天降神社御社紋は、天皇家の関連の「三ツ割菊」です
米多比鎮久氏により奉納された天狗面が、天降神社宝物として所蔵しています。
布施野氏とは
布施野(ふせの)氏は、平安時代から鎌倉時代にかけての公家です。
神社境内入り口、神殿に向かって左側に布施野氏関連の石碑が3体あります。
いつかは不明ですが、「天降神社史」を作成されています。また令和5年10m以上の巻物も所蔵されていましたが、現在古賀市文化課に移管されています。